「無題」に秘められた問いかけと、人それぞれの発見、落としどころ
絵画や彫刻なんかの美術作品で、「無題」って作品をよく見かける。とても不思議だ。
たとえばメッセージ性のある深遠なタイトルをつけ、作品そのものとの相乗効果で自分の創作意図をより有効にアナウンスしよう、とか考えないのかな。
そんな俗事に構わないのが本物の天才なんだろうけど。
「無題」の絵画ってすごく不思議だ - すちゃらかな日常 松岡美樹
goo ブログ松岡美樹 さんの記事より
確かに「無題」って不思議だ。
○簡単な経緯
ここ一連(2008/02〜)でブログ記事の見出しについてお二方の間で一騒動があった。
流れを順にまとめられていたので先ずこちらを見て頂くと判り易いかもしれない。
id:pbh さん記事
松岡美樹 x id:marubon:見出し引用問題私的まとめ - 幸せの鐘が鳴(r
詳細はお二方の記事を見てもらえるとそれぞれの様子が見えてくるかと思う。
id:matsuoka_miki さん記事
http://blog.goo.ne.jp/matsuoka_miki/e/4d89d37ffb22f06dfef63e319756d7f0
id:marubon さん記事
当ブログにおけます記事の見出し問題について - 踊る肉とパイナップル
○ふと思った事があるのだとしたら
上記のような、ここ一連のブログ記事のタイトルについてのやりとりがあり、思いをふと漏らすような形で投げてみたたのだと思う。
おそらく
「記事を括るタイトルって大事だよね?」
「なんで自分の記事にちゃんとタイトルを付けてあげないのだろう?」
「これじゃ「無題」って言っているようなもので主張にもならないものを放置、放棄しているも同様じゃない。」
あくまでこちらの一方的な推測だけど、松岡氏のそんな思いが漏れ出てきたのかもしれない。
ところでこの「無題」っていうキーワードの設定が気になって、あれこれ考えてしまった。
○先ずは松岡氏の立場などを想像してみると?
松岡氏は文筆を主体として生活されている様子。
記事名に著作権が必ずしも認められて居ないように規定されていたとしても、それを安易に受け入れ”はいそうですか”という訳にはいかないだろう。
自身の放つ記事は、収入にも関わる事でただなんとなく安易にネットに放流する訳ではない。
- そのひとつひとつが自身の作品や子供とも等しきもの。
- それらを勝手に使ったり、模倣されてはたまったものではない。
- また、予め読者へののネタ振りでもあるだろう。
ああ、どうぞどうぞと安易にそれを認めれば、自己矛盾に陥ってしまう。
自分が書いた記事内容を代表し、それを括り現すタイトルであれば尚のこと。
人間で言えば、様々なものが詰まった総体としての人名にも近しい。
ただ、ブログの場合はそれが原稿料と直結する訳で無いので、必ずしもそこまで気合がこもっているとは限らないだろう。
それでも、気軽に書けるブログとは言えやっぱり気合入れまくって書く事もあると思う。
しっかり推敲し送り出した記事。それに対して、カジュアルにコピーされた自身の記事タイトルを見かけてしまったら、やはり心穏やかでは居られないだろう。
気軽にみえがちなブログ記事と、その反対の生活がかかった原稿。
今までの様々なトライ&エラーのすえに到ったフリーライターというポジション。
ブログとは言え、世に公表したものは今まで辿ってきた足跡の結晶の一つ。
松岡氏にとっては、自ら踏み固め築きあげてきた自負が少なからずあるだろう。
文筆で収入を得ている訳でもなく、手軽だからブログに書いちゃえ〜と言うあり方とは正反対の取り組みをして来ているだろうから。
だからこそ、たかだかブログの記事なんだからと言う扱いや取り組みには余計に憤りを感じてしまうのは当然だろう。
実は過去にもっと入り組んで捻れてこじれた事などがあり、それを回避する為にも強固に出たのかもしれない。
ご本人の事はご本人や極近しい人にしか判らないのが本当のところ。
と、とりあえず松岡氏の思いについての憶測はここまで。
○何故無題?
ところで松岡氏記事タイトルにある”無題”。
もしも自分が無題にするとしたら、こんな感じなのかなと言う想像。
ただ流石に流石にブログ記事を無題にする事はないだろうけど。
あ、そう言えば以前、ブログ記事にタイトルつけたつもりが抜けてしまっていた事はあったか。fc2だとはてなみたいなインターフェースでなく、編集完了後記事は表示されない。あれこれやる事があって、保存してさて次なんて感じでやらかしてしまっていた。
それはさておき彫刻や塑像など、コトバではなく実際の物であったりアクションやパフォーマンスなどの場合は、必ずしもタイトルをつけ難い事があるかもしれない。
物として形づくる、既に形ある物を壊す崩すなど。
主張よりもやった事や、何故こうなってしまうのか?そんなものを問いたい、投げかけてみたい。
もしくはじっと見つめて見て欲しいという場合、下手なタイトルをつけるよりも見て触って感じてもらって欲しい。
そこからその人なりに思いを馳せて欲しい。
あれこれ思いを巡らせて見て欲しい。
その末で、そうしたかったらその人にとって最も相応しいタイトルを自分なりにつけて欲しい。そんなケースはあると思う。
○衝動というか、なんだかぽこっと出てきてしまったというか
自分でも理解しがたいとき
- 何故だか判らないけど、作らずに居られない
- 何故だか判らないけど、壊さずにいられない
恋や仕事、主張が受け入れられずむしゃくしゃしている。
そのむしゃくしゃしたり落ち込んでいる真最中。
その時はそれがなんであるのかなんてまるで認識できていない。
ブースターでも作動しているかのように気持ちばかりがOverDriveして、自分の意識とは別に勝手に体が動いたり、言い難い自意識から外れた情念が渦巻いたり。
そんな時、まさにその真最中では到底タイトルや気持ちを何かで括って認識する事なんてできない。
一方造型系の作家なんかだと、ただこねまわして居る事で心が落ち着いたり閃いたり気持ちがまとまる事もあるかもしれない。
他にも感情が高ぶった時に叫びまくるだったり、ちょっと叫び散らすわけにはいかない時に、ペンをノートにぶつけてもうあれこれ殴り書きしたり。
それをやっている時は無我夢中。
ひとしきりそれをやって落ち着く。
しばらく間を置いて、後からやっと見えてくる事もある。
○意識と無意識、好きに到るまでの過程
例えば人が、「私はあなたが好きだ」という意識にはっきりと到るまでには?
どうも気になる、これはなんだろう。
この気持ち何?
この感情は?
あ、もしかしてと気付く。
このままでいいの?
この場合「私はあなたが好きだ」というタイトルめいたものありきじゃなくて、過程を辿る事で気づく。
過程がありそれをまとめる事でどうやら「好き」と括れる。
これって一体何?
一言で言い難い、根源的な、何か揺れてしまうような事。
感情を揺さぶったり。
コトバで表現し難い。
そういうものは案外溢れている。
寧ろコトバやタイトルで括ってしまうことで、判り易く明確になる代償として失われる側面やディテールもあるだろう。
過程や渦巻いたコトバで表現しがたい情念などをコトバ以外で表現したい。
何だかはっきりとは判らないけどありのままを感じてみて欲しい。
自分なりに思い返して照合してみて欲しい。
そんな時あえて「無題」という形を取るのかもしれない。
人はタイトルで、その人が体験や見聞きしたその人なりの想像をめぐらす。
決して作者と全く同じ思いをもてる訳では無い。
でも、気持ちが揺すられるとか、何かの思いが芽生えるような気持ちの共有は、ひょっとしたら出来るかもしれない。そんなとき、下手なタイトルで括るのは逆効果と考える事もあるかもしれない。
○あるいは
もしも人が何事もありのままに全て受け取り受け止める事ができるなら、名前やタイトルなんて要らないのかもしれない。
寧ろ”無題”のままで固まっておらずゆらゆら揺れているのが自然な状態かもしれない。
しかし人は、ありのままなんてそう感単に受け入れられるものでは無い。
自分の認識をはっきりさせる為には無題ではなく、なんらかの括りや明確な識別が必要。
時間や年数が経てそれがやがて変わっていくだろうけど、その一瞬をはっきりさせる為にくくりが必要。
○ところでいきなりママと赤ちゃんの話
苦労や腐心して生み出した作品は、ある意味子供のように大切なもの。
そんな作品と子供を無理矢理対比してみちゃう。
世のママさんは、こういう事なんですよなんてきちんとした訴えやタイトルで括られていなくても自分のあかちゃんが、何故泣くのか軽々理解してしまう。
- お腹すいた
- 眠い
- オムツの中が気持ち悪い
- どこか痛い
- 熱がある
男にはその差なんてまるでわからない些細な違い、違和感。
そういうものを軽々見分けてしまう。
勿論そこには愛情、愛おしさ、母性本能など女性ならではの感と経験、感受性が作用しているのだろうけど。
もしも女性や上記のような母性故に、自分で書いた記事にしても、そもそも自分のものと言う感覚自体が薄かったならば?
自他を明確に分ける事をそこまで拘らなくなってしまうかもしれない。
タイトルなんて別にどうだっていいじゃん、みたいな感じで。
○公開したもの、作品、文章には様々な命めいたものが宿り得るかもしれない
自分の作品ではあるのだけれど、他者の目に触れその中に入り込んだとき、独自の命や意味が宿るかもしれない。
タイトルの有無に関わらず、人を動かす何か。
タイトルがあるからこそ惹かれる何か。
○それを形にしてみせたのは誰?
でも、それを綴り生み出したのは人。
その文章の裏に人が潜んでいる。
その人はどんな人なのか?
もしも括るとしたらどんなイメージで括るのか?
良く見つめてみたり、見ざる得ない、相手せざるえない。
そういう時は、言葉や表現だけでなく裏に潜んだ真意を見いだせられたらと思う。
いちいち全部なんては到底ありえないけど。
更に感情に火が付いたらそうそうそんな冷静な見方は出来ないだろうけど。
○でもね〜
男はそんなの関係無く、これは僕のだ〜って叫びたいんですよね。
稼ぎ、働きを他人や会社、組織に認めてもらわなきゃおまんまのくいっぱぐれとなってしまう。
○そうやってふと思ってみると
失恋とかだと、良く男の方が簡単に捨てられず、ずるずる引きずってしまう。
女性はあっさりすっぱり、さっぱり捨てて忘れて切り替えちゃう。
なんてのは良く言われますね。
実際女性は出産から子育てなど状況、環境の変化が本当に激しい。
いちいちタイトルなんて付ける以前に対応して動かざる得ない。
男は自分がやったことに一生懸命意義や意味、タイトルつけてうだうだ。
じゃないと認めてもらえませんから。
世の女性には、男のこういう情け無い子供っぽい、事情もあることにも気付いてくれたらな〜と思う次第です。
愛情感じられなければ無理?
そりゃごもっとも・・・
それには、もっと可愛げでも無いといかんですね・・・。
そうやってみるとなんとタイムリーな
id:ululun さん記事
松岡美樹さんはid:marubonさんに対して「すちゃらか」でいるべきだと思うんだ - 煩悩是道場
女性は子供産むとコトバなんてわからなくても、タイトルでいちいち示されていなくても皆わかっちゃう。
でも男って子供生めるわけでもなく、やっと書いた作品を子供代わりに、これが俺のだ!って主張するしかないんですよね。
俺がフリーライターだ!俺が部長だ!俺がガンダムだ!って感じで。
最後が余計過ぎる・・・ orz
そんな調子で、男って得てして意地っ張りの「すちゃらか」野郎ですから。
諌められっぱなしの松岡さんになりかわり、すちゃらかな落としどころで・・・。
とか言いながら、実際には自己弁護を兼ねて〜。