団塊の世代って、実は結果的に依存世代?
裏づけも何もあったもので無い単なる思いつきからの印象論です。ゴメンなさい。
戦争で全てが吹っ飛んでしまった。
日本的価値観も、敗戦によって否定せざる得なくなってしまった。
日本そのもの、もしくは心の拠り所としての神仏汎神の否定。
頼るものが崩壊。
唯一肯定された道徳や良心の象徴として、暴走を食い止めるストッパーとしての皇室。
再生、創造するしかないけど、敗戦という傷跡で欧米追従路線。
でも、元々日本って西洋的な個に立脚して居ない全体調和で成立していた国。
殊更に個を主張せず、全体調和、全体に溶け込む。
大勢は神頼みみたいな感覚で支配されていたのではないか。
お天道様という、ありえない、見えない超越した何かに信義や良否を預けてしまう事で、罪を憎んで人を憎まず的な、人間であるからこその迷いや愚かしさ到らなさを自然に受け止め消化していたのかも知れない。
真偽や真実は人智を超えた超越した超自然的なお天道様に預けてしまう事で、人と人との軋轢や境界を上手く埋めていたいたのだとしたら?
しかし、敗戦によりそのお天道様を否定せざるえなくなり、手短な欧米的個性の輝きみたいなものこそが最優先されるべきと言った風潮に摩り替わってしまったのだとしたら?
見せ掛け、表面的な欧米的価値にあてられてしまう。
お天道様基準としていれば、自他共に特別否定する事無く、超自然の元には等しく下位の存在として認め合い、断絶や否定をそれ程する事もなく平等であるからこそとして自然に繋がる事が出来ていたのではないか?
しかし、欧米の個ありきの文化、個と他の違いに根ざす文化や歴史的背景を見定められずに表面的に現れがちな事を模倣してしまったのだとしたら?
欧米では、やはり個ありき。いかに個を鍛え上げ価値あるものとしていくか?他との絶対的な差異。突出傑出している事。そんなものが普遍的な価値みたいな感じであるのではないか。
大陸文化と呼ばれるように、ある国や民族が領土争いを繰り広げる。その地位を絶対的にする為には、自国を正とし、他国を悪もしくは劣と定義付けてしまう。
そこには、理由付けがなされる。
自国の優位性、他国の劣等点。
本当かどうかはどうでもいい。
それが常識であるとして。
行き過ぎれば全滅も免れない。
その中でも特にアメリカはそんな欧米から新天地を求めスピンアウトした人々が元になっている国だと思う。
欧米での覆し難い旧来のステータスを嫌って、より個が成功なりを掴み取れる可能性に掛けた国。
でも、ここでもインディアンを否定してしまった。
おそらく、自や個を正として位置づける為に、他を劣等であったり否定する方向にあるのでは無いか?
それを回避するにはキリスト教などで、帰属意識を持つ事で同属感を持つ。
そして日本は、世界大戦では個をベースとする世界観を持つ国々に負けてしまった。
焦土からの復興では、従来の価値観は否定の方向に向かわざるえない。
でなければ、支援は望むべくも無い。
そして、勝者である欧米をモデルにせざるえない。
自然や全てになんらかの魂が宿るとする汎神よりも、資本主義競争原理が勝者の論理として持ち込まれるし、それを常識としていかないと立ち行かない。
中途半端ではとても適うものではない。
そうやって、団塊の世代は戦後の復興を担って来たのかもしれない。
ただ、その時兎に角勝ち抜けであったり、物質的豊かさがどうしても前面に来てしまった。
そこに、見かけ的表層的差別化され成功した個と言う理想をと言う幻影を見せられ、見ざるえないまま。
その時、年長者やそして未熟なもの達を自分と同じ者として見る事ができず、違う者と認識せざるえなかったら?
旧来のお天道様基準であれば、超自然的な世界に(下位的に)属しある意味生かされている感覚なんて感じであったのではないか。
でも敗戦による文化慣習風潮の自己否定、戦争からの復興で自分達で勝ち取った、そんな意識が芽生えてしまったのだとしたら?
そうなった時、自分達世代こそが日本を支え復興したと言う空気に支配されていたのだとしたら?
人間は何かに生かされているも同然と言う感覚は失ってしまうのではないだろうか。
そして、復興してみせた、そんな感覚が世代的に支配的な空気となっていたら、そのご褒美を欲しがるのも当然だろう。
金、名誉、裕福、余裕、貯蓄、豊かさ、幸福。
そんなものがバブルを生み出す風潮は無かったのだろうか?
でもおそらく、お天道様の生まれ、生かされている等しい人と言う感覚をもてなくなり、喪失し飢え帰属意識を失った孤児のような個。
お天道様と言った超越した何かに物事を委ねる事が出来なくなってしまった世代であるからこそ、荒涼とした世界を個としてそれぞれ生き延びガムシャラに頑張るしかなかった。
そして復興。
敗戦で失われた様々な価値感から、欧米的な個に依拠したある意味名誉挽回。
すると、今までの働きに対しての見返りとしての経済、物資的な過剰な要求と言う暴走もあるだろう。
その暴走のツケは後世に来るのは当然なのだが、あまりの傷にそうも言っていられない。
そんな事を安易に認め難い傷。
故に個の保守堅持が優先され、次世代、後世へのバトンタッチ、引継ぎ世代交代などと言った動きが失われているのではないか?
元々若者って、そうそうはなから仕事が出来るものなんて居なかったのではないか?
それぞの馴染み易かったり、適正が上の世代や立場から見届けられていて、自然と道を選ぶ、もしくは選んだつもりになれていたのでは無いか?
しかし欧米的個性が入り込んできた。
そこで旧来は自然と見届けられていた適正の判断がなくなってしまった。
後から来るものの適正を見たり、育成、伝授する動きが途絶えてしまった。
お天道様なんて意識があれば、仕事は自分がやると言うよりは、誰かがやってそれが社会に役に立っていればいい。自分がやっていると言うよりもその仕事がキチント果たされている事こそが重要なんて思えないか?
もしもそんな風に思えたら、自分で途切れないように、適する次世代を探し伝授するなんてのも、殊更特別な事でなく寧ろされこそが本来的、自然としてあったのでは無いか。
今は、個、個性、能力、才能なんてものが前面に来てしまう。
でも、旧来の日本は皆で適正や継承育成を自然と意識しながら暮らしていたのではないか?
欧米的個にほだされ、生かされている人間という感覚を喪失した団塊の世代。
彼らが自らを省みておかしさに気づいて本来的な事を照らし合わせる事無く、未だに敗戦からの喪失の痛み、飢えを、物質的享楽、裕福を享受する事に目線が行ったままなのだとしたら?
その時当然後塵の行く末など見る余裕も無い。
おそらく大戦以前の旧来の日本では、大人や年長者は少なからずお天道様に少しばかり近しい存在として、年少者に対しての身の振り方は自然と決まっていたのではないか?
ほんの少しだけお天道様に近い側として、上から見届け、時に様々な開示をして見せたり、道を示して見せたり。
でもそれを果たさない。果たせない。
そんな断絶、途絶。
それは、現代の引きこもりやオタク、そして個や物質的享楽に走る存在を生む。
先に繋がりにくい、その世代で閉じた集団。
それは敗戦の痛みと言う理由、そして自分達こそが築いてきたと言う理由に立脚しているのではないか?
結果的に、団塊の世代以外の後塵への伝授を忘れ、結果的にそれらの人々から窄取する形での依存に支えられていないか。
それをそのまま続けたままであれば、逆に本来のあるべきが自然と復興してくるのでは無いか?
物質的資金的豊かさを希求し、人との繋がりが困難となって居るグループ。
どこかで何かで繋がっていたい、そんな事を希求するグループ。
そんな特徴的な断絶してしまったグループが形成されているような気がする。
繋がれないグループは結果的に社会や次の世代に依存してしまっているのかもしれない。
ネットで見つけさせて頂いた関連しそうな記事など
404 Blog Not Found:モラルリストラの必要性
注記
- 勢いで綴ってしまったので構成も何もありません。
- 物質的、経済的な豊かさを優先する層の象徴として、仮に団塊の世代と位置づけてしまいました。
- 何か社会が歪んでいるのでは無いか?と思わずに居られないのですが、それが適正化に向かわない不思議を感じています。
- 東洋的、西洋的価値感、世界と人の位置づけみたいな部分がちょっと気になっていたりします。
(深く調べたりまではとても行けず、ぱっと掴み易そうな印象としてですが)
- 2007年12月頃から活発な、好きを貫く→楽しみを見出す、個性よりも適正なんてあたりの関心と絡めてしまいました。