夢の逸品とあって当然のモノ
MORI LOG ACADEMY: ものを欲しがらない若者
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2008/11/post_2264.php
何も無いから思うままにドンドン作る世代
夢に満ちた新しいモノが次々生み出されたけどそれが手に入らない、モノに惑わされる世代。
一方既にモノがあってあたり前の世代。
どれがモノに対して平常な眼差しを持つか?
平常な眼差しを持っているのならば何を欲しがるのか?
MORI LOG ACADEMY: ものを欲しがらない若者
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2008/11/post_2264.php
引用開始
今の若者が欲しいのは、もう「もの」ではないのだ。ものならいくらでもある。彼らが欲しがっているのは、「暖かさ」とか、「親しさ」とか、「楽しさ」とかであり、「熱狂」「感動」「静寂」「安心」といった抽象的なものなのだ。それらは「もの」からは、もう得られない。何故なら、彼らの周りには、既に「もの」が波のように押し寄せていて、彼らにどっぷり浸かっている。そして、その波に向かって、「自発」という小さなボードでサーフィンがしたいと憧れて眺めている。そんなふうに波(沢山のもの)を見ているのだ。
引用終了
一方で、モノを作り出した人々が、それを効率的に回る仕組みで囲い込む。
結果、そのモノがある、活用することでしか回らない社会が積みあがり、そこからはみ出すことすらし難い世の中。
モリ氏の記事最後の写真
窓越しのネズミの人形と高層マンション群の写真
映画アキラ、そして千と千尋の神隠しの人形や玩具に囲まれた巨大な赤ん坊を連想してしまった。
車が売れない、モノが売れない。
まさに今、時代がそこに直面している?
モノが溢れた、でも綺麗に整えられたレールで敷き詰められた社会。
そのレールに嵌れないと、行き場は途端に狭まってしまう。
産み出され、形が与えられたモノの呪縛と言うか。
そう言えば、人間も物理的な姿形を持つモノとしての呪縛から逃れるのは容易なことではないか。
赤ん坊に関してはこんな記事を見つけてしまってますます参ったというか。
H-Yamaguchi.net: 「巨大な赤ん坊」の取り扱い方
http://www.h-yamaguchi.net/2008/10/post-4cb7.html
公的資金で救済される金融機関、「巨大な赤ん坊」の取り扱い方 | 専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】
http://mediasabor.jp/2008/10/post_508.html
大きい大人の姿をした、実は赤ん坊とベビーシッターで動いていた世界。